きょうだい
友人のお兄ちゃんの結婚式の話を聞いて、昨夜はひとり泣き笑い。
ほんとに可笑しくてあったかい。 私にも弟がいるのだけれど、ちいさいころから逆だったらよかったのに…と誰もがいうくらいの姉弟だった。 活発で天真爛漫で人懐こく頑丈な私、優しく内気でからだも弱い弟。 中学まで私は勉強もでき(それ以降のことは訊かないでください)運動もできたから先生たちには目立つ存在だったみたいで、比べられていた弟はずっといろんなことに自信が持てずにいたんじゃないかと思う。 私も遊び方も性格も違う弟を顧みるほど優しい姉じゃなかった。 いつもほっぽって勝手に遊びに行っちゃっていた。 別にいじわるしていた訳でもなくて、可愛くなかった訳でもない。 私自身が何でもひとりでこなす性格だから、弟も自由に生きていると思っていた。 大人になって弟が弱っちゃって外に長いこと出られなくなってやっと私は弟のことを考えるようになったんだと思う。 どうやって生きていったらいいかわからないと言う弟の頭を撫でて、私は子供のときこんなふうに弟をなでなでしたことがあっただろうかと、長い時間を悔いるような気持ちになった。 もちろん、私が弟に与えた影響なんて小さいものかもしれない。私のせいだったかもしれないなんて考えることはおこがましい。 だって弟だってひとつの人格で、たくさんの他の世界にかかわっているんだから。 でも私にはどこか引け目みたいなものをいつも弟に感じている。 …それにしては自由じゃん!って言われそうだけど。 弟もだいぶ元気になってしばらく彼女と暮らしていた。 そして先週、彼女の実家に遊びに行ってご両親にお会いしたらしい。 昨日お土産の牛タンを食べながら、可愛がってもらえるといいなと思った。 そんな夜に読んだ友人の日記だったからなおさら、うれしくて。 |
『ナイン・ストーリーズ』サリンジャー
読んでいても他のことばかり考えちゃう本がある。
なかなか集中できない本というのとはまた違って、どんどんどこかが鋭敏になってきてそちらに気をとられるような。
立ち表れた感覚の方に意識が飛んでしまって、一度止まったり思いをめぐらしたくなるような。
それとも今の私の状態がそんななのかな。
そうかもしれない。
バナナフィッシュにうってつけの日。
フラニーとゾーイーのお兄さんとしてしか知らなかったシーモアの最後の数時間。
静かできらきらしていて、けれど永遠に拭えない倦怠のようなもので満ちている。
こんなになんでもない一日の延長に死はあって、その死は世界を変えない。
ただ、その事実だけ。
アーヴィングが物語る死もそうで『ウォーターメソッドマン』を読んだときにたぶんほんとうの死とはこういうことなんだととてもショックを受けたのだけど、それに近い衝撃だった。
この場合の死は少しずつ育くまれ(でもからだやこころに死を育まないで生きているひとなんかいるだろうか?)、本人によって選ばれたものだけれど。
でも、死は、死。
ぽつりとこの世からただ断ち切られてしまう、そして相変わらず時間が流れていってしまうのは同じ。
そういう意味で死はとても等しい。
死に対して何かが高まっていったり見失ったり混乱したりしてそこに向かう描写はいくつも見るけれど、こんなに生きる延長みたいに選ばれた停止だからこそものすごい爆発を私のこころに残していった。
きっと私にとって死はこういうものなんだろうという気がした。
予言めいて、こんな死が一番かなしく、自然に感じられるから。
そして小舟の話。
とても細かくしかし客観的に子供の様子をとらえていて、そこに可愛らしさとかどうしようもなさとか混沌とかが息づいている。
子供の感情の発露の筋道は地下水脈みたいに見えなくて一本道を辿れるわけでもない。
けれど突然そこに発生するわけじゃない。
それこそ混沌を掻き混ぜて掬いあがってきたわたあめみたいに、その出所を分類することはできない。
でも大人にとっても感情とか感覚ってそういうことだと感じている。
喜怒哀楽とか、便宜的に名前をつけちゃったけど。
だからきっと、子供が泣きだすとつられて涙が出ちゃうんだろう。
ユダ公って言われてそれを凧のことだと勘違いするんだけど、悪口を言われたということはちゃんと分かって傷つくほんの短い少年時代の話。
笑い男とテディも好きだけどまだうまくことばにできない。
またいつか読み返すはず。
なかなか集中できない本というのとはまた違って、どんどんどこかが鋭敏になってきてそちらに気をとられるような。
立ち表れた感覚の方に意識が飛んでしまって、一度止まったり思いをめぐらしたくなるような。
それとも今の私の状態がそんななのかな。
そうかもしれない。
バナナフィッシュにうってつけの日。
フラニーとゾーイーのお兄さんとしてしか知らなかったシーモアの最後の数時間。
静かできらきらしていて、けれど永遠に拭えない倦怠のようなもので満ちている。
こんなになんでもない一日の延長に死はあって、その死は世界を変えない。
ただ、その事実だけ。
アーヴィングが物語る死もそうで『ウォーターメソッドマン』を読んだときにたぶんほんとうの死とはこういうことなんだととてもショックを受けたのだけど、それに近い衝撃だった。
この場合の死は少しずつ育くまれ(でもからだやこころに死を育まないで生きているひとなんかいるだろうか?)、本人によって選ばれたものだけれど。
でも、死は、死。
ぽつりとこの世からただ断ち切られてしまう、そして相変わらず時間が流れていってしまうのは同じ。
そういう意味で死はとても等しい。
死に対して何かが高まっていったり見失ったり混乱したりしてそこに向かう描写はいくつも見るけれど、こんなに生きる延長みたいに選ばれた停止だからこそものすごい爆発を私のこころに残していった。
きっと私にとって死はこういうものなんだろうという気がした。
予言めいて、こんな死が一番かなしく、自然に感じられるから。
そして小舟の話。
とても細かくしかし客観的に子供の様子をとらえていて、そこに可愛らしさとかどうしようもなさとか混沌とかが息づいている。
子供の感情の発露の筋道は地下水脈みたいに見えなくて一本道を辿れるわけでもない。
けれど突然そこに発生するわけじゃない。
それこそ混沌を掻き混ぜて掬いあがってきたわたあめみたいに、その出所を分類することはできない。
でも大人にとっても感情とか感覚ってそういうことだと感じている。
喜怒哀楽とか、便宜的に名前をつけちゃったけど。
だからきっと、子供が泣きだすとつられて涙が出ちゃうんだろう。
ユダ公って言われてそれを凧のことだと勘違いするんだけど、悪口を言われたということはちゃんと分かって傷つくほんの短い少年時代の話。
笑い男とテディも好きだけどまだうまくことばにできない。
またいつか読み返すはず。
八島湿原
ここで日の出を見たいんだ!と我儘を言って朝暗い中むりくり運転させてつれてきてもらったこの八島湿原は、実は大学のゼミで一度訪れたことのある思い出の地。
今は亡くなってしまった先生と先生の友人のマジャール人のおじさんも一緒にここを歩いた。
私、沼とか湿地とか何故か大好きだ。
写真も白黒が好きだし色もグレーが好き。
影や骨が好きだし、やっぱりあんまり明るい人間じゃないのかもしれない。
それぞれを好きな理由を突き詰めて考えてゆくとそこにはちゃんと理由があって、その理由同士はところどころで繋がる。
まだ感覚的にしかつながっていないところもあるけれど、それはそれでいいやと思っている。
ここからとことこ降りてゆくとこの湿原を一周できる。
すごく行きたかったけどあまりの寒さに断念した。
ね。寒そうでしょう。
ほんとうに寒くて、私たちは山小屋から毛布をお借りして体に巻きつけていたんだけれどそれでも歯ががちがちいいっぱなしだった。
もう帰ろうよーと何度も言われたんだけど強情に、日の出を見るんだ!とここに留まった。
今日はとても寒くて、特別に綺麗だね、と写真を撮っているおじさんたちが言っていた。
山小屋のひとも言ってたんだけどこの日山は急に秋に足を踏み入れたらしく気温がぐんと下がったらしい。
水道管が凍ったとかなんとか騒いだりもしていたから。
現に前日とこの日との紅葉の加減は明らかに変わっていた。
一日でこんなに山は色を変えるのかと驚いた。
こんなに寒くても、花についている水は凍らないんだ。